帝王切開の理由別体験談
お住まい | 神奈川県横浜市 |
帝王切開の回数 | 1回 |
出産地 | 東京都中野区 |
出産年齢 | 30代 |
子の生年月 | 2005.1 |
産院(総合・個人) | 個人 |
2005年1/14に定期健診に行くと、その日初めてNSTの機械をつけて心拍数をチェックする検査。
助産師さんがじっと見てちょっといなくなる。先生が来て心拍数の表の見方をおしえてくれた。
黄色の線から下がると、心拍数が落ちていてキケンで、今日の赤ちゃんの様子は黄色の線ぎりぎりだと。
もし下がるようなら明日にでも促進剤使ってお産にする、とのこと。
(そのときの正直な気持ち→早めに見れるのはなんかうれしいかも)
で、一旦帰宅、なんとなく入院の準備などをする。
翌日朝イチで行って、またNSTをつける。表を見せてもらう。
昨日のものと比べてあきらかに落ちている。
黄色の線の下だった。あとつけている間時々無反応に がくっと落ちるような針の動き方をしていた。
先生は「胎盤の機能が落ちているか、臍の緒がまきついて時々息をしてないか、とにかく危険。
普通分娩だと障害がのこるか死産になるかもしれないので帝王切開にしたいが、どうしますか」と聞かれる
(このときの正直な気持ち。なんでもいいから早く会えるのはなんかうれしいかも)。
その日は土曜日だったので、午後から手術をする。
そのさい隣町から「名医を呼ぶから」と言われた。あとで考えたら麻酔の先生らしい。
本当は手術は二人体制でやらねばいけないのも、そのときは知らなかったので「先生、自信持ってよ」と思った。
浣腸、点滴、着替え、ストッキング(血栓予防)装着、剃毛等を終えて手術室へ。
「名医」が来る。
担当医がいくつか注射をして背中を丸めて注射するも、うまくいかず、「名医」が注射したらずばっと入った感じがした。
「これどうですか、」とつままれて、まだ感覚があったので、すこしアタマを下げてみる。
「これどうですか」「足上がりますか」など聞かれて、無反応でいると、「今針で刺してますよ」
といわれ「全然わかりませんでした」「じゃあ切ります」と手術開始。
静かで、かちゃかちゃ音がして、しばらくして「ちょっと引っ張る感じがしますよ」といわれて、2回くらいぐいっと引っ張られる感じがして、ちょっと間があってから産声がした。
先生は、「やっぱり首にへその緒を巻いていた、胎盤もボロボロだった」と言っていた。
第一子との対面はそんなに感動的ではない。
髪の毛が黒々してるな、と思ったくらい。
推定体重が2600だったのに生まれてきたのは2250gの女の子。
でも正常産期での出産なので保育器には1日だけ入った。
夫にあとできいたら「急展開で「はい赤ちゃんですよ」って言われても」と、彼も戸惑ってたようだ。
振り返ると、育っていくうちにコミュニケーションが取れるようになればなるほど関係が深まり愛情も深くなったなあ、ということ。
生まれてすぐは「赤ちゃんだ」くらいの感情が今では「世界で一番の宝物」と思う。
話は戻って、後陣痛といわれる子宮収縮がとてもつらかった。
生理痛のひどいのがずーーっと続く感じ。
それから何のせいかはわからないけど「外でお経をあげている」
「飲み会帰りの一団が騒いでいる」「水が流れっぱなし」という幻聴があった。
母乳の出は悪かったけど、ミルクと順調な離乳のおかげで現在は身長体重は標準。
好き嫌いもあまりなく、アレルギーも虫歯も持病もナシ。
母親学級で帝王切開の人の体験談を聞いていたので「よくあることなんだな」という認識でした。
自然分娩には全くこだわりがなかったです。
父母も義父母も帝王切開については特に偏見もなく、「無事生まれたのならそれに勝る喜びはない」というスタンスで見守っていただきました。
保育園でも「生活のことや身の回りのこと、お友達関係もよくできてる」と言われ、生み方よりも育て方、とはよく言ったものだと思います。
お住まい | 愛知県 |
帝王切開の回数 | 1回 |
出産地 | 愛知県 |
出産年齢 | 20代 |
子の生年月 | 2007.5 |
産院(総合・個人) | 総合 |
(夜11時)寝ようとした時、異変を感じる。
おしるしがあり、あ~陣痛がそのうち始まるかな?と心構える。
おしるしの少し前から軽い生理痛のような痛み。これが陣痛だと気付かず。
おしるしが止まらないな、と思い見てみると、出血の感覚だと思っていたのは血ではなく水。
破水している。
すぐに病院に電話。その場で入院になる。
(夜中2時)陣痛室で初めは陣痛の間に話も出来るが、この頃から陣痛が5分間隔に。
体力は奪われ、眠さも重なって陣痛と陣痛の間に落ちるように眠る。
子宮口まだ2センチ。
(朝4時)陣痛は2~3分間隔に。辛い。
母がアイスを食べさせようとするが気持ち悪いのと、眠さで全く受け付けず。
陣痛が遠のくと落ちるように寝るので、陣痛ばかり感じてるかのようだ。
陣痛が去ったと思ったら、間髪いれずまた陣痛がくる事が5回に1回くらいある。
子宮口は3~4センチ。
(朝7時)相変わらず陣痛は2分間隔。朝ごはん食べられず。
とにかく眠い。トイレに立つがフラフラ。
子宮口は5センチ。
子宮口が5センチ開いたらお産は3分の2終わってると看護師さんに言われる。
(昼11時)分娩室があいたとの事で、出産にはもうちょっとかかるが、とりあえず移動する。
分娩台で陣痛を我慢。横向きから上向きに変えたら、陣痛が何故か楽になった。
その時、急に看護師さん達がバタバタしだす。先生が来る。
胎児が心拍50で6~7分続いている。胎児仮死。
有無を言わせず緊急帝王切開。陣痛をとめる薬を入れるがまだ陣痛がしばらく続く。
何枚かの同意書に署名。手が震えて字が上手く書けない。
(昼12時)手術室へ。昼1時に出産。全身麻酔の為、産声を聞けず、悲しかった。
APgは9点。とても元気な女の子。40週5日の出産の割には2584グラムと小柄。
術後はとにかく痛かったです。
術後1日は何故かずっと全身が震えてとまりませんでした。(寒いわけではない)
入院8日間で退院しましたが、歩くのもやっとでした。
陣痛があった為、出血がひどく(羊水込み1650ml)ひどい貧血になりました。
次は絶対に自然分娩でいきたいです。
お住まい | 広島県広島市 |
帝王切開の回数 | 1回 |
出産地 | 広島県府中市 |
出産年齢 | 20代 |
子の生年月 | 2003.3 |
産院(総合・個人) | 総合 |
出産予定日を1週間過ぎても陣痛の兆しが無いため、病院側から「陣痛促進剤」使用を持ちかけられ(というか決められ)ました。
予定日前にも2回ほど「網膜剥離」(けっこう痛かった)をしたのに、まったく効果がなかったみたい・・・
■手術当日
促進剤使用後、胎児の心音低下(60~70)があり、この時、陣痛促進剤を使うとまれに低酸素症をおこす場合があり、帝王切開となる可能性もあると言われました。
その後再び心音が低下(50~70)し、この時点で帝王切開決定。
手術は下半身麻酔で、痛みは無いけど、おなかの中をグリグリされているのが分かって気持ち悪かったです。
手術時間は1時間くらいだったでしょうか。
この日は水も飲んじゃいけないと言われ、脱脂綿を湿らせたものをもらい口を湿らしたり、氷片をもらったり。飴やガムならOKだったみたいです。
入院生活はこんな(↓)感じでした。
■術後1日目
採血・水を飲む許可が出て、夕方から初めての食事
■術後2日目
痛み止め・カテーテルが外れる
■術後3日目
初めての授乳
■術後4日目
午後からお風呂 入浴許可はまだなので足だけ洗う
■術後5日目
シャワートイレのおかげか、お通じ有り(^^;
■術後6日目
抜糸 ホッチキスのようなものをリムーバーみたいなのでひとつずつ外す。
外すとき皮膚に当たると痛い。うまく当たらないように抜けると痛くなかった。
■術後7日目
ガーゼが取れる
午後からお風呂 シャワーを浴びた
《その他》
私は目が悪いので普段コンタクトです。
出産時はコンタクト大丈夫かと確認したところ(普通分娩の予定だったからか)、「無くなったりしても大丈夫ならいいですよ」と言われました。
現在第二子をやはり帝王切開で出産予定ですが、そこ(今回は別の病院)では「手術するのにコンタクトなんてとんでもない!」とすごい剣幕で言われました。
初めてのご対面なのに、顔がぼんやりとしか分からないのは哀しいと思います。
それに手術室の詳細も分からないのはやはり不安があります。
お住まい | 神奈川県 |
帝王切開の回数 |
1回 (2度目はVBAC) |
出産地 | アメリカ |
出産年齢 | 30代 |
子の生年月 |
1999.9 2002.4 |
産院(総合・個人) | 総合 |
二人ともアメリカで出産しましたので、日本の産婦人科の先生とは指導の仕方が違うかもしれませんが…
154cmの身長で普段の体重は52kgですが、先生には15Kgぐらい太りなさいと。
(日本ではありえませんね。)実際は1人目も2人目も12kg増えました。
1人目、妊娠経過はすべて順調でしたが、予定日を過ぎても陣痛も来る気配がなかったので、2日おきにノンストレステストに病院に行ってました。
3度目のノンストレステスト(予定日6日越)のときに余りに反応がなさ過ぎるので、先生から、これから誘発して出産するか、それとも様子を見ますか?といわれました。
私のいた病院ではウルトラサウンドによる検診は9週(予定日調整のための大きさ確認)と20週(何か障害、異常がないか)のみで、かなり自然に任せる感じの病院でした。
主人と先生と話し合って、誘発することに決め夕方の5時ごろから誘発剤を入れ始め、お腹には胎児モニターという心拍数などを図るものを巻きました。
時間がたつにつれ陣痛は強くなっていきました。
アメリカでは完全無痛分娩が主流ですが、そこは、麻酔は使うもののいきむときに自分でいきむ感覚などがわかるよう、子宮口が5CM以上になってからで、75%~80%までのもので、しかも効き目が2時間から3時間のものでした。
私もそれを希望し確か夜9時ごろ背中にうちました。
そのおかげか陣痛はかなり楽にはなりましたが、その後、先生に破水をしてもらい、今度はモニターを胎児の頭に針金のようなものでつけました。
そして、麻酔はやはり2時間半ぐらいで効き目がさめてきました。
その効き目が薄れると同時に私の呼吸もなかなか上手く出来ず、胎児モニターが心拍数、心音の低下の異常を知らせ始め〔夜中12時頃です〕、私は酸素吸入をつけられ、看護婦さん、先生が私のお腹をゆさゆさ揺すり、体を横向きにしたり、反対向きにしたりとても怖かったのを
思い出します。
主人も立会いだったので、真っ青になっていく顔を見て、とても不安になったのを覚えています。
何とか心拍数が戻り、子宮口が9CMまで開いていたので、先生としては経膣分娩をさせたいという思いがあったのでしょうか、少しいきんでごらんと言われ、50%ぐらいの力でいきむとまたモニターがピーピー鳴り響き、先生に「今回は帝王切開にしよう」といわれ、今度は下半身の麻酔を背中に打ち、手術室へ行きました。
低酸素の状態に1度なっているとのことで、小児科の先生も手術室に来てくださいました。
手術自体は、とても手早かったのを覚えています。
下半身の麻酔でしたので、胎児を取り出すときにお腹を押す感覚ははっきりわかりましたし、赤ちゃんの産声も聞くことができました。
12時40分に無事に3300gの男の子の出産となりました。
手術中、私は術台の上で胸の位置にカーテンがあり自分のお腹がどういう状態にあるかわかりませんでしたが、立会いだったので、お腹を切る様子や、切ったところを支えている器具がステンレスのでっかいシャベルみたいだったよ。とその後主人は言っていました。
術後は1時間ごとに看護婦さんが体温と脈と血圧と出血と導尿の状態を見に来てくれ、出産から6時間後に赤ちゃんを連れてきてくれておっぱいを飲ませました。
それからはずっと母子同室でした。赤ちゃんのお世話はそれ以降私の仕事です。
看護婦さんが赤ちゃんを見に来たり、連れて行くときは検査のときだけでした。
お腹の痛みが強くて、ベットから降りれない状態での、母子同室は結構つらかったです。
その後も2~3時間ごとに状態をチェックしにきてくれ、それとお腹のマッサージがありました。
多分悪露を出しやすくするんだと思いますが、それはやはりお腹を切っていたのでかなり痛かったです。
それから食事も普通の食事だったし、2日目には点滴をしたまま、その辺を歩いてきなさいと先生に言われ痛みに苦しみながら、5分しか持たなかったんですが、歩きました。
で、3日目には退院し、自宅へ戻りました。
先生からは傷口はテープでカバーしてあるからシャワーもOKといわれました。
傷口については確か2週間したらテープをはがしなさい。表面はくっついていても、内部がくっつくのには時間がかかるから無理をしないようにとのことでした。
出血等心配なことがあれば電話でも、検診にでもすぐ来なさいといわれました。
たしかに、トイレのときとかはかなり痛みましたし、徐々に乗っていくのですが、手を上に伸ばしたときに中のほうが痛むうずく感じはかなり長い間続いていました。
その時に次の妊娠については、出来れば次の出産が2年以上たってるといいと思う。
というくらいで詳しいことにはふれませんでした。
お住まい | 広島県御調郡 |
帝王切開の回数 |
1回 (2度目はVBAC) |
出産地 | 広島県府中市 |
出産年齢 | 30代 |
子の生年月 | 2001.12 |
産院(総合・個人) | 総合 |
私も昨年12月に緊急帝王切開にて女の子を出産しました。
陣痛が9分間隔、子宮口も4センチ開いていたんだけど、胎児の心音が低下し、「胎児ジストレス」との診断でした。
①カンガルーケア(誕生直後に母親が赤ちゃんを抱く)
②母子同室、ができる施設で産みたいと希望し、隣の市まで通って出産を楽しみにしていた私は、医師に手術を告げられた時、ショックと落胆と不安のあまりすぐには了承できませんでした。
産後には実の父から母を介して「産前によく歩かなかったからじゃないか」と言われ、落ち込みました。
実の父でも帝王切開分娩にマイナスイメージを持っているんでから、お姑さんやお舅さんはどう思っておられるのやらと不安でした。
また、同室の人は、分娩所要時間2時間という、出産が軽かった人で、出産した日から母子同室をされ、その赤ちゃんのかわいい声を聞くと余計に落ち込みました。
皆さんの書き込みを読んで、「帝王切開で産んでも普通分娩でも何も変わりない」と理解できたし、勇気も湧いてきました。
どうもありがとう。
しかし、もし叶うなら今度は普通分娩で出産したいという気持ちもあります。
これは私の中に、帝王切開分娩への負い目やらマイナスイメージがあるからでしょうか?
自分でもよく分かりません。
理由の1つに、もうお腹を切りたくない。というのも9年前、盲腸が裂け内臓を取り出して洗浄したことがあり、今回切開手術をした医師に「内臓の癒着が見られた」と言われ、できるならもうお腹を切りたくないという気持ちがあるからなのかも知れません。
でもそれだけでしょうか。
2つ目に普通分娩も経験してみたいという気持ちもあります。
どちらにせよ、今度妊娠したらどういう方法で出産すべきか家族と医師とよく話し合って決めたいと思います。
あくまで「母子共に元気に出産を終えること」ができることが一番ですよね。
お住まい | 京都 |
帝王切開の回数 | 2回 |
出産地 | 京都 |
出産年齢 | 30代 |
子の生年月 | 2018.1 |
産院(総合・個人) | 総合 |
一回目は硬膜外麻酔、二回目全身麻酔でした。
一度目が緊急帝王切開でVBACを希望していましたが、総合病院ではなかなか取り合っておらず、なかば諦め近所の公立の総合病院に行くと、予定日まで待ってくれるとの事。
臨月に入ってからはひたすら歩きましたが、予定日になっても何も兆候が見られず、帝王切開になりました。
その病院は全身麻酔で帝王切開を行っていましたが、前回の緊急帝王切開で感じた不安感、意識のはっきりした状態で行われる手術、自分のおなかの中を触られている感覚がしんどかったこともあり、まあ、前と違う方がいいか!と案外前向きに迎えられました。
ただ、産声が聞こえるか、産後すぐの赤ちゃんは見れるのか、その二点が気になりましたが、残念ながらどちらも無理との事。
手術当日、麻酔で眠っていたのに、産声が聞こえたのです!
友達の看護婦さんは一生懸命歩いたし、VBACは無理やったけど、神様がごほうびくれたんだよ。と。ラッキーでした。
赤ちゃんは家族が先に見て、私は写真で、次の日に連れてきてもらえました。
帝王切開でなく出産したいという希望もありましたが、まあ、私は無理だったんだな~。と思いました。
一人目を出産してから、手術の痛みを考えると子供を作るのを悩んでいましたが、やっぱり欲しいと子供に考え、そして恵まれ、全身麻酔で手術してもらった今は次も全身麻酔がいいな~。と思っています。
病院によって様々と思いますが、私の場合は全身麻酔の方が良かったですよ。
ただ、自分の産んだ子を最初に見たかったな~とは思いましたが、今は小さくても、私の顔を覚えて笑いかけてくれる赤ちゃんを見ると、まあいいか。と思えます。
お住まい | 宮城県 |
帝王切開の回数 | 3回 |
出産地 |
宮城県岩沼市 宮城県仙台市 |
出産年齢 | 30代 |
子の生年月 |
1996.8 2000.5 2005.3 |
産院(総合・個人) |
産婦人科専門病院(1•2回目) 小児専門総合病院(3回目) |
<1回目>
某雑誌で斜め読みしただけで、帝王切開についてまさか自分の身に起きるとは思わずに、37週を迎えたある晩、破水して入院となりました。
追って陣痛もやってきたのですが、4日前の健診でまだまだ固かった子宮口、何時間待っても注射を打っても、2cmより開く気配なし。
そのうち足下がばたばたと慌ただしくなり、主治医登場。
「赤ちゃん苦しんでいます。切って出してあげないと、危ないです。」「切る」という言葉より「赤ちゃんが危ない」という言葉が大きく頭の中に響いて、そこから私の中での出産のイメージの再構築が始まりました。
お産は最後まで分からない、と頭で分かっていても、まさか自分が緊急手術にという事態になろうとはそれまで考えてもみませんでしたが、赤ちゃんのことを思えば四の五の言ってはいられません。
主治医の説明はとにかく丁寧で、今母体と胎児がどんな状態にあるか、パニックに近い私たち夫婦にもよくわかるように話してくださいました。
「切らないでどうにかならないのか?」と旦那。(この発言は、帝王切開だと一人っ子とどこかで嘘を吹き込まれたためと後日判明)「腹を切るのは私だから、私がいいって言うんだから、がたがた言わずにハンコついて。」と私。
前日までは立会分娩希望で両親学級に通い、呼吸法の練習も一緒にしてきたのですが、ぎりぎりになり「産むのは私だ!!」と開き直り、主人をせかしながら承諾書にサインしました。
緊急オペと言うことで、そこからの動きはとても迅速でした。
あっという間に数名のスタッフに囲まれ、3分間隔の陣痛の合間を縫っての術前検査、処置がわらわらと進められました。
そんな状況の中ふっと、改造人間にされる仮面ライダーの気持ちを想像してみたりしながら、旦那に見送られ、ストレッチャーにのせられ、慌ただしく手術室に移動したのでありました。
麻酔は腰椎麻酔でした。
手術台に横になって丸くなるのがなかなかできないため、座ってクッションのようなものを抱っこした姿勢で麻酔を打ってもらいました。
局所麻酔だから産声は聞けるし、触られた感覚はありますよ、と事前に説明は受けていましたが、切られている感覚、引っ張られている感覚は、想像以上に生々しかったです。
あまり気持ちのいいものではありませんでしたが、「危ない」と言われた我が子が元気に産声を上げたとき、そんな不快感は吹き飛んでしまいました。
スタッフの方が眼鏡(裸眼視力0.08)をかけさせてくれて、生まれた赤ちゃんを見せてくれました。
我が子の無事を確かめると急にリラックスして、娩出後の処置をしているスタッフに「脂肪吸引サービスなんか、ないですよね~。」と話しかけてみる私。
「ないですね。産後元気になったら自分で頑張ってください。」と答えるスタッフ。
麻酔が切れた後の痛みをまだ知らない私は、とても上機嫌で回復室に運ばれたのでありました。
産後2時間、我が子が回復室に連れてこられ、助産師さんのポラロイドカメラで記念撮影。
「しばらく添い寝してていいですよ」と言われ、点滴のついていない方の腕で我が子を抱き、しばらく寝顔を眺めていました。
本当にかわいい!!この子のために腹を切るくらい何さ、としばし感激に浸っている私の腹に忍び寄る激痛。
麻酔切れの時間を迎え、我が子は新生児室に連れて行かれました。
「麻酔切れましたね。痛み止めあげますけど、次は6時間はあけることになってますから、頑張ってくださいね。だんだん良くなってきますから。」
6時間がこんなに長いと感じたことが、一生のうちにどのくらいあるかというくらい痛かったです。
痰が絡んだり、くしゃみが出そうになったりするたびに、どきどきしました。
傷もさることながら、血栓予防のために足を動かすたびに導尿のためのカテーテルがちくちく触ってうらめしかったです。
痛みで眠れない間、初めてのお産をふり返り、イメージと違うな~と落ちこんだり、それでも子どもは元気なんだってからいいじゃない、と立ち直ったり、いろいろ考えました。
見舞いに来た実母の「お産は最後までわからないから病院があるんだし、命を救うための医療でしょ。
元気な赤ちゃんだよ、よく頑張ったね」という言葉が涙が出るくらいうれしかったです。
産後3日目まではリカバリー室で安静を保つ方針のため、体はスタッフが蒸しタオルできれいに拭いてくれました。
当時私は水虫持ちだったので、多分足すごい匂いだったと思います。
それでもにこやかに仕事をこなすスタッフに、プロフェッショナルのすばらしさを垣間見ました。
一般病室に移ってから頭痛がひどくて点滴を受けました。
6日目に半抜鈎、7日目に全抜鈎、シャワーが許可されたのは10日目でした。
二週間という長い入院生活の中で毎日おっぱいマッサージをしてもらったため退院の頃には母乳もすっかり軌道に乗りました。
二ヶ月目に生理が戻ってきましたが、卒乳まで母乳が不足することはありませんでした。
幸い私の回りには帝王切開であることをとやかくいう人はいませんでしたし、自分の経験を通して、いろんなマイナスイメージの多くは誤りであることがわかってきました。
「あそこの病院はすぐ切るって話だよ」と後から聞かされたときは、自分のお産と、自分と子どもを救ってくれた病院を批判されたようで嫌な気持ちになりましたが、子育てをしているうちに気にならなくなりました。
~2回目~
同じ病院でVBACした職場の先輩が「私は下から産んだ方が産後断然楽だった。
でも一回切ったんなら無理しないで先生に従った方がいいと思うよ」というので、どうせ二週間で退院できるんだし、憧れはあるけどまた手術してもらおう。そんな考えで、初めての手術か3年後に第二子を妊娠しました。
一度手術したことを最初の健診で確認しましたが、後期まで特別に気にすることはなく、普通に健康な生活を心がけるよう言われたので、職場で力仕事を他の職員に代行してもらうことにしたくらいで、一人目の時とたいして変わらない妊娠生活を送りました。
妊娠後期、私と助産師の間でバースプランについての話し合いが行われました。
「どのようなお産にしていきたいとお考えですか?」「母子共に生きて一緒に退院できれば上でも下でも構いません。」
一人目の時とは時代が変わり、その病院でもフリースタイルのお産ができるようになっていました。
「生きて一緒に退院できれば」という答えは、助産師にとって、次に進みづらい答えだったようです。
苦笑していました。
健診の際主治医から、子宮破裂の可能性について一通りの説明がありました。
その確率は数パーセントにも満たないこと、破裂から何分後に娩出しないといけないか、夜にお産が始まった場合、何分で手術の用意ができるか、など丁寧に話した後、「こちらは常に最悪の事態が起きても対処できるように、あらゆる可能性を考えて準備を進めます。
危険性については低い確率でも、少しでも可能性のあることなら、お母さんにはきちんとお話をすることにしています。」と付け加える主治医。
私は破裂のリスクと向き合いながらVBACに挑む気はなかったので、予定帝王切開を希望したのですが、「う~ん、条件によってはできなくもないんだよね。経膣にトライしてみて、リスクがあと一つでも増えたらすぐ手術ということでどうですか。前に切ってるということでリスクが一つ。リスク二つになったらうちの病院は即切ります。」ということで、よく分からないうちにVBACにトライすることになりました。
本当に自分も経膣分娩できるのかな、できるならやってみたいな、と半信半疑で臨月に突入しました。
が、子宮口まだまだ固い37週。夜中から腹に15分間隔の張りがやってきて、翌朝上の子を保育園に送って入院。次第に狭まる間隔。
しかし子宮口開く気配なし。
そのうちまたぱたぱたとスタッフが出入りし始め、昼過ぎに主治医登場。
「心拍落ちることがあるんですよね。赤ちゃんとしてはまだ心配なレベルではないのですが・・・この位乱れたら危ないですけど。」といって主治医が開いたのは私のカルテにある、上の子の分娩の時のNSTの記録でした。
あらためて、前回の決断は適切だったと確信。
いやいやそれもだが、今回は・・・「リスク二つです、赤ちゃんも2500前後あるようですから、外に出ても大丈夫。
この状態が長く続くとお母さんの子宮が危ないです。手術しましょう。」というわけで、またしても私は慌ただしくストレッチャーに乗って手術室に移動することになりました。
手術の段取りがわかっている分、痛みも想定の範囲内で、今回は麻酔も横になった状態で注射してもらうことができました。
今回は取り乱さないぞ、と思っていると、麻酔液を注入しながら医師が「あれっ。」と声をあげました。
「えっ、何かしたんですか。」「いや、横に漏れたかな、と思ったけど大丈夫。手術中は何でも声に出してスタッフに周知させることになってるから。」
それはわかるのですが、あれっ、とか、えっ、とかは手術をされている身としてはドキドキものです。
そのうちうまく麻酔も効いてきて、無事女の子が誕生しました。
健診で男の子と聞いていたので動揺しましたが、元気ならどっちでもOK!と対面し、赤ちゃんは新生児室へ。
そして私は縫合の処置を受けました。
「私こないだ上の子に、『オオカミと七ひきの子ヤギ』読んであげたばかりなんですよ。と言うと、看護師さんは笑って、「大丈夫、石入れたりしませんから」とフォローしてくださいました。
おめでたい手術なので、そのくらいの会話は許されると調子に乗る私。
執刀医の口調も軽快です。
「前の傷を切り取って縫い合わせたら、1センチくらいウエストスリムになりましたよ。」
「ありがとうございます。でも焼け石に水です。」なんて事を話ながら、処置終了。
2回目は術後の痛みも1回目ほどはひどくは感じられず、母体は至って順調に回復していきました。
しかし赤ちゃんは2340g、保育器に入るような状態ではないけれど、哺乳力が弱く、新生児室でチューブからミルクをもらわなければいけない状態でした。
というわけで母児同室はお預けで、私はひたすら休養と搾乳に明け暮れました。
別の赤ちゃんをドクターカーで迎えに来た総合病院の医師がついでに診察をしてくれて、NICUに入院する必要はなく、引き続き生まれた病院で保育してもらうことになりました。
術後の生活は1回目と同じでした。
私の水虫も治っていませんでした。次こそ治してから妊娠しようと思いました。
入院中は毎日姑が上の子を面会に連れて来てくれました。
上の子は病室に来ると決まって私のベッドに入ってきました。そこに息子もお世話になった助産師さんがやってきました。
「赤ちゃんかわいいでしょう。お母さん頑張ったんだよ。お母さんはお兄ちゃんを産むときもとても頑張ったの。
痛い手術も我慢したの。お兄ちゃんはお母さんにとって特別なんだよ。」
年間1000を超える分娩をこなす病院で、4年近く前のお産のことを引き合いに出されると思っていなかったので、ついほろりときました。
14日目に退院し、翌日から毎日車を運転して冷凍母乳を届けました。
赤ちゃんのお世話がない分、疲労回復は早かったかもしれませんが、できれば退院直後は車を運転したくなかったな~というのが本音です。
一緒に退院することはできませんでしたが、私から遅れること5日、娘は家にやってきました。
しばらく小さめで推移していましたが、小さいなりに成長していたし、大きな病気もしません。
かかりつけの小児科の先生も、「元気なんだから何も気にすることない」といってくれました。
2度目も2ヶ月で生理が戻ってきましたが、母乳は卒乳までなんとか足りました。傷は・・・1回目よりきれいです。
~3回目~
3人目をどうするか。欲しいけど体がそれを許すのか。
迷っていたときこのHPに出会い、期間限定でトライすることに。
そうして授かったのは双子でした。
双子、嬉しいけど大変そうだ、私の腹は持つのか?
いろいろ考えましたが、選択肢は「産む」しかありえないので、自分を鼓舞するつもりで「もうけました~どの道切開だし~」と言ったら医師が「切ればいいというだけの問題ではないんですよ。二倍大変なのではなく、十倍大変なんです。
いい状態で産むために、しっかり健康管理してくださいね。」と釘を刺されました。
間もなく悪阻で体重が激減し、尿検査でケトンが検出され、入院の指示が出され、そのまま職場は病休となりました。
重症悪阻の入院直前の膜性診断で二絨毛二羊膜であることが確認され、双胎の中でもリスクの少ないケースと告げられました。
「赤ちゃん一人一人に専用の胎盤が作られますから、育ちやすいんですよ。」
育ちやすいのは嬉しいけれど、私の子宮、どのくらいの大きさまで耐えられるの???
悪阻で激減した体重が安定期に戻ってきて、「双胎も半分くらいはうちで分娩可能だけれど、中毒症になって早産傾向が進むようなら、大きな病院に今から移るのも方法ですよ。うちはお母さんの治療はできるけれど、小さすぎる赤ちゃんの治療はできませんから。」と医師に告げられました。
「もう少し経過を見て決めることもできるし、どっちにしても太りすぎない方がいいことに変わりはないから体重管理頑張ってください。」という指示を忠実に守り、それからはお褒めの言葉をいただくくらい健診の結果は良好でした。
体重管理のための散歩と、安静とのバランスに悩みながらなんとか28週到達。
時々お腹が張るため、ウテメリンの錠剤を処方され、服用を始めました。
お産に繋がる強い張りでなければ心配しなくていい、といわれても、どんどん大きくなるお腹に「本当に裂けないのか?」と不安も大きくなってきました。
比較的リスクの低い双胎だし上の子もいるから、と管理入院はどんどん先送りになり、31週到達。
夜中に頻繁にお腹が張るようになり、早産と子宮破裂のリスクに私の気持ちが耐えられなくなり、上の子を主人と両親に頼んで、32週で管理入院がスタートしました。
どこに行くにも点滴が一緒の生活は不便ではありましたが、何かあってもここなら大丈夫、という安心感で、数日ぶりに夜ぐっすり眠ることができました。
37週か38週に手術、なんて話をしていた入院3日目。張りの回数が多くなり、ウテメリンの濃度が上げられました。
午後のNSTの結果を受けてか急にスタッフの出入りが激しくなり、エコーの機械が病室に運び込まれました。
私としては、しょっちゅう張ってはいるものの、痛いとは感じないでいました。
そのうちにもう一種類、コンクライトMg追加。
夕方上の子ども達と主人が見舞いに来て、帰ろうとしたところを呼び止められ、主人は医師と退室。
そこに夕食が運ばれてきたので、私と上の子は夕食を食べながら主人を待ちました。
食べ終わった頃に、主人と、医師3名入室。「食べちゃったの!?」と驚かれてこっちも驚きました。
点滴にはまだ余裕があるから、抑えられるかもしれないし、もしかしたらこのままお産になってしまうかもしれない。
赤ちゃんのためにNICUのある病院に搬送すること、搬送先は今返事待ちであること、今日手術になるかどうかは受け入れ先の病院の判断であることなど説明を受けました。
まもなく、隣の市の小児専門病院の産科が受け入れOKという返事があり、私は救急車に乗せられて転院することとなりました。
救急車には医師と助産師が一名ずつ、カルテと点滴一式を持って同乗してくれました。
術前検査の間に医師同士で引き継ぎが行われ、未知の病院での入院生活が始まりました。
転院先で、私は卵管結紮の手術をお願いしました。
三度目の切開手術になる産婦には一通り話をしている、ということで、こちらからもお願いするつもりだったので、主人にもサインしてもらい、前の手術の癒着などがなければ結紮してもらうことになりました。
子どもが四人になるし、男女両方いるし、何より、またリスクと向き合って妊娠生活を送る自信がないこと、今ある家族への責任が果たせなくなってはいけないこと、いろいろ考えた末の結論でした。
寝たきりとまでは行かないものの、毎日三回のNST、病室の外に出るときは車イスを押してもらって、という毎日でした。
調子のいい日にNICUを見学させてもらい、「いつでも大丈夫なように、N二つ確保してありますから」と言われ、子どもについては安心することができました。
肺が成熟する34週を第一目標に、退屈でも無理はしない事を心がけて一日一日を過ごしました。
膝のまわりに静脈瘤ができていたため、そのケアも兼ねて医師の薦めで太ももまでの弾性ストッキングを履くことにしました。
スタッフが採寸してくれ、売店の店員さんが病室まで届けてくれました。
値段は2500円前後でした。
町のドラッグストアでも類似品が売っていますが、病院で買った物は蒸れなかったのに対し、町で買った物は蒸れてかゆくなりました。
あまりの腹の大きさに自分でストッキングを着脱できないので、毎度スタッフに助けてもらいました。
安静生活で手術前に血栓ができては大変、とストッキングの他に人の手でのマッサージもしてもらいました。
転院して半月後、点滴は最大値になりました。副作用で暑くなったりだるくなったり、はじめは体もつらかったのですが、二日もすると体が薬に慣れました。
前に切ったところが痛むようなら呼んでください、といわれたものの、私の伸びきった子宮は痛みをちゃんと感じるのか?そもそも前の傷は今どのあたり?これで抑えられなければ手術、という状態は精神的にきついものはありました。
入院中毎日簡単な記録をつけていましたが、そこに遺言も書いておいた方が良いだろうかと、半ば本気で考えた日もありました。
それでも、上の子の子育ての話、一人で食べる昼食の手早い作り方、といったスタッフとのおしゃべりでだいぶ救われました。
35週、腹囲109㎝、子宮底長49㎝まで持ちこたえ、点滴が最大になってからおよそ一週間後、
腹緊の間隔が10分を切るようになったので、すぐ手術ということになりました。
毎度毎度「すぐ切りましょう」でしたが、今回が一番慌ただしかったような気がします。
でも、これで最後ということで、リングに上がるファイターのように気合いも十分、元気に手術室に入場。
小児専門病院だけあって手術室は和やかな装飾でした。
レントゲンのアームがキリンの網目模様だったり、ライトのカバーに乗り物がペイントされていたり、BGMにドリカムが流れていたり、リラックスできる雰囲気でした。
腰椎麻酔はよく効き、お腹は前回の傷の隣を縦切り。
間もなく一人目誕生、二分後二人目誕生。
ベビーはすぐ新生児科のスタッフにケアされて、一人は箱形、一人は開放型の保育器に入れられて、私のそばを通って手術室を出て行きました。
私はそれから結紮手術と、縫合の手術を受けました。
傷が大きく、ホチキスが足りないのでは、と思われましたが、ぎりぎり足りました。
病室に戻ってから、翌朝までは下肢加圧装置と心電図モニタを装着して過ごしました。
子宮の戻りを促すため、傷の上にアイスノンを乗せられました。
翌日カテーテル抜去、初回歩行という、3度目にして初めての体験をしましたが、思ったより動けました。
抑制剤の副作用から解放され多分、かえって体調が良かったくらいです。
その次の日には車イスを押してもらって我が子に会いに行きました。
術後2日目には防水テープを貼ってシャワーも浴びることができました。
抗生剤の点滴が終わり、久々に針の刺さっていない体になったときは、何とも言えない開放感に包まれました。
五日後にホチキスをとり、「退院していいよ」と言われたものの、「家が遠くて迎えが来ません」と半分ほらを吹いて、二、三日退院を延期してもらいました。
抜鈎の後、マイクロポアなるテープの貼り方を指導してもらいました。
下半分まだ赤く5mm幅くらいに盛り上がっているのですが、「見せる腹じゃないし、面倒くさい・・・。」と3ヶ月で挫折しました。
片方の子がが感染症にかかって危険な状態になったり、もう片方がなかなか口から飲めなくて胃にチューブを挿管したり、いろんなハードルがありましたが、同じ病院にいるのですぐ面会に行けたし、担当の医師から丁寧に状態を説明してもらえたり、母体搬送で良かったと思えることがたくさんありました。
産後14日目から、生後25日目、二人揃っての退院前日まで片道20kmを自分で運転して冷凍母乳を届けました。
回を重ねるたびに子どもの退院は遅くなりましたが、母体の回復は早くなっていったような気がします。
それは、手術へのモチベーションの高さと、子ども達に鍛えられた母の気合いのせいではないかと思います。
いっぺんくらい経膣分娩をしてみたかった気持ちも正直ありますが、夢中で子育てをしているうちに、そんな一日二日のことより、子ども達との毎日が作ってくれる絆を大切に思えるようになりました。
お住まい | 長崎 |
帝王切開の回数 | 1回 |
出産地 | 長崎 |
出産年齢 | 20代 |
子の生年月 | 2004.12 |
産院(総合・個人) | 個人 |
私の通っている産婦人科は、アクティブバースを推奨するので体重は8キロ増までを目標。
会陰切開を行わないためのアロマオイルによる会陰マッサージの実施出産時のフリースタイル分娩の事前練習等さまざまな努力を行い、安産になるよう努めていました。
その為か、出産予定日の12月6日になったとたんの2時過ぎ破水、入院となりました。
ただ、破水の量が非常に多かったので心配しました。先生・助産師さんは全て出て行かないので大丈夫というのですが普通羊水の量って500ml位なのにずっと出るのです。
感染症も心配でした。
入院して4時くらいから軽い陣痛みたいなのが5分感覚でやってくるようになりました。
8時には診察を受け、9時から一時間おきに6回、陣痛促進剤を飲みました。
順調に陣痛はくるようになり、15時付近では1,2分間隔にまでなり、逃すための木馬やクッションボールアロママッサージなどを行うようになりました。
しかし、子宮口はずっと3cm、そして心音は大分下に落ちてきているのに羊水は相変わらずじゃばじゃばでてきます。
(本当なら頭が降りてくれば赤ちゃんの頭でふさがり羊水のおちてくる量は減る)
結局促進剤投与は終わり、次の日にもちこしになりました。
そのうち間隔は5から8分間間隔になり、旦那がさすってくれながら朝を迎えました。
また次の日の6時から陣痛促進剤を飲み始め、8時に診察しましたが、その時上位破水であることがわかりました。
その時有効な陣痛がくることを期待し、正規の部分にもうひとつ人工破膜をしたそうです。
薬では埒があかなくなったので、9時から点滴に代わりました。
30分ごとに15時までレベルを上げていきます。
そのうちに間隔は狭まっていき、また痛い場所も腰から肛門のところに変わってきました。
14時くらいからは1,2分間隔になりました。
しかしやっぱり子宮口は3cm。言われるたびにうんざりしいつまで続くのか、不謹慎ながら飛び降りてしまいたいと思いました。
そのうち、モニターの波形を助産師さんが気にするようになりました。
つけている場所を変えたり、押さえたりして波形を確認しやすいようにするので今まで
さすってくれたり押してくれてたのがなくなり、陣痛がさらに過酷になりました。
同じことを無理やり旦那に要求して肛門と腰を同時に抑えたりしてもらうようになりました。
しかし3cm・・・どうして!?
先生が16時過ぎにやってきて、調べたところ、6,7cmにまでなったことがわかりました。
あと3cm、しかしそれは一日半かかってやっとの7cmなんです。
あとの3cmがどのくらいかかるか、そして問題は赤ちゃんの心音でした。
陣痛が起こるたびに心音が激減します。苦しいんでしょう。
先生が、「あと3cmだけどそれを乗り切るのも選択肢だけど赤ちゃんが今まで元気だったのにだんだん疲れてきている。
私も疲れている。賭けをするより切って出してあげた方がいいのかもしれません、どうしますか?」
赤ちゃんが疲れてる・・・その言葉を聞いて、先生にどうか切って早く出してあげてくださいと泣きながら懇願しました。
そしたら運良くその時間帯の診察がキャンセルになったとかですぐに手術となりました。
剃毛をしようとするたびに陣痛・手術台にあがってから全裸で手を縛られても陣痛、今までと違いさすることもできず叫びながら、だらだらこぼれる羊水をかばうように助産師さんが肛門を押してもらいながら腰椎麻酔、ようやく陣痛がなくなり、ぽっと赤ちゃんは出てきました。
そしてその時、「あーこんななってたから赤ちゃんは下りれなかったんだなー、子宮が開かないわけだ」という声が聞こえました。
あとで説明を受けた母によると、へその緒が子宮の一部にひっつき、それが元で回旋が逆になっていて下りれない状態になっていたそうです。
あと3cmを賭けで陣痛を我慢しても、永久に子宮口全開にはならなかったでしょう。
術後は夜中に麻酔が切れ、痛みに襲われ眠れず4回肩に鎮痛剤を打ってもらいました。
翌日朝はLDRから部屋に車椅子で移動、それも地獄でした。
その日は寝たきり、横向くのも苦痛です。
だけどがんばらないとと少しずつ左右に寝返り打つ練習をしました。
二日目はカテーテルを抜きます。
そして歩行練習です。
さて座る練習をしようとした矢先、後頭部をハンマーで殴られたような痛みが!
歩くのも座るのも痛くて涙があふれてきます。
トイレが苦痛でなりません。
しかしその日は横になると落ち着くのでベッドを斜めにして寝てすごしました。
翌日は寝ていても痛いようになりました。赤ちゃんを抱っこすることも出来ません。
そしてこの病院はミルクは頑として与えず、糖水のみの補充なので赤ちゃんは二日間糖水だけです。
かわいそうで涙が出てきます。
起き上がれないので寝たままで赤ちゃんを連れてきてもらい口に含ませるように努力しました。
ただでさえ帝王切開だといいとされる分娩後30分以内に赤ちゃんにおっぱいを吸わせることができません。
飲ませはじめも遅れます。
出なくなったらどうしようと心配しました。
しかしその心配をよそに、加えられた直後からぱーん!と張り、どんどん出てくるようになりました。
8分で100ccも飲むんです。マッサージも何もせずにです。それには感激仕切りでした。
看護婦さんの中でも有名になっていました。
理由としては、5ヶ月から言われたとおりに乳首のマッサージを行っていたのと、帝王切開の人の食事がおもゆ。
おかゆからだったのが良かったのでは?という話でした。
帝王切開の人の方が授乳が遅れても出やすくなることが多いと言っていました。
おかゆがいいのでは?という話でした。
さて、頭痛ですが、先生は一週間すると治るんだけどなーと言っていました。
しかし、私の中では、帝王切開の人は全部こうなるんだろうか?と疑問をもっていました。
そしたら後日、緊急で使う腰椎麻酔はきついので頭痛の副作用が出ることがあると言う話を聞きました。
私は次も分娩状態を見るかぎり多分帝王切開だろうといわれました。
2回目は予定帝王切開だからチューブを入れて硬膜外麻酔なので頭痛はないよといわれました。
また、他の日に、ここまでなる人は10人に一人くらいの確率とも言われました。
そして抜鉤の日、先生から傷口は本当にきれいに治ってますよ、と言われました。
その時、結構アクティブで無理をする私に、神様は頭痛を与え動けないようにし
傷口をきれいに治るようにしてくれたのだ、と思うことにしました。
術後9日ごろから頭痛もかなりなくなりました。
今まで寝たきりだった分何も世話を出来なかったので、沐浴、オムツがえをかなりあとになってから行いました。
しかしその間にスタッフの人がマッサージ・毎日の体拭き・足浴を寝たままさせてくれたりかなり信頼関係が築かれていました。
普通この病院では8日目に最短退院するのですが、私は12日目になりました。
しかしその間でもいっぱいスタッフの人に話が聞け、体を休めることができました。
赤ちゃんもおっとりした性格であまり泣かず泣き声も響く声ではなくよく眠るいい子です。
予定日とおりに生まれた割には2718と小さめだったのですが、本当に母乳をよく飲むので退院時には3140グラムにまでなってました。
今度もこの病院でぜひ産みたいと思います。しかし頭痛だけは大変でした!